刑法に次の条文があります。
(礼拝所不敬及び説教等妨害)
第百八十八条 神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
2 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
これは、国民の広い意味での宗教感情を保護するための規定とされ、憲法20条で保障された信教の自由が、他人の正当な宗教活動への干渉を禁圧することを要請しているところ、本条は、それを超えて、国民が死者や神仏等に対して持つ思想、感情等を害する行為を処罰することとしていると説明されています(第2版条解刑法495頁)。
本日(9月27日)、亡安倍晋三元総理の国葬儀が催行されました。その当否についての様々な意見があることは当然とは思いますが、インターネット等を見ると、それを直接妨害することを意図するような行為も見られたようです。
今回の国葬儀が、構成要件としての上記条文の客体に該当するのかは法的に議論があるのがもしれませんが、死者を弔う儀式がなされているという事実はあり、その宗教感情を保護するという趣旨は当てはまるように思えます。
とすると、国葬儀は違法であるという「正義」に従い、それを妨害するような行為をなすことは、「正義の暴走」であり、死者を思うおうとする者の感情に対する不寛容な姿勢と捉えることもできるのではないでしょうか。
人は誰でも平等に死んでいきます。その厳然たる事実の前に、自分以外の人の死に対して、仮にその人に対する好き嫌い、考え方の違い、利益の相違等があったとしても、根源的に同じ宿命を背負う同士としての「悲しさ」を共有できないものでしょうか。
自らの「正義」を貫くことがその場面で「正しい」のか謙虚に考える姿勢と他者への寛容さをもつ社会であって欲しいと思います。