『人も社会も、何ものかを手にするなかで、何かを失うことを避けることはできない。軽軍備・通商国家として豊かな果実を手にした戦後日本であるが、何か大事なものが欠けているように思われる。そして、ひとたび帝国主義時代の山から転落したあと、再び、こんどは経済主義の山を一歩一歩登りつめて尾根筋に立った現在、「足りない何か」はいっそう切実に感じられる。
足りないのは、軍事力というハードではない。尾根筋に立った者に求められる大局的展望力と、それに基づいて決断する者にただよう風格とでもいうべきものであろうか。身をひそめて経済の実を手にする慣性のなかで、われわれは、他国民と世界の運命に共感を持って行動する苦痛と誇りを、見失い過ぎたのではなかろうか。』(「日米戦争と戦後日本」五百旗頭 真著、講談社学術文庫277頁)
憲法改正が叫ばれる昨今、 「押し付けか否か」などという言葉に終始するのではなく、これまでの日本人が歩んできた道についての歴史的大局観をもった議論がなされなければならない。
私自身は、立憲主義へのアフェクションを抱きながら思う。
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